2013年3月5日火曜日

マリおばさん

マリおばさんはお母さんの一番下の妹。
マリおばさんの与えてくれる物はどれも特別。
そう、私が欲しいのはこういう物。
お母さんやお姉ちゃんがおしつけてくるヘンテコなモンとは全然違う。


1970年代前半から半ば。円が1ドル360円の固定相場制から変動相場制になった頃、テレビの中だけの外国を手にとって教えてくれたマリおばさんはまさに黒船のような存在だった。

フランス製の抱き人形、ギンガムチェックの赤い傘、モスグリーンの小さなバッグ、モザイクのブローチ、真鍮のバックルがついた革のベルト、チュチュのようなネグリジェ。まだ小学生の私にもロンドンブーツをはかせてくれたし、流行通信という雑誌も教えてくれた。最初に美術館に行ったのもマリおばさんと。物を作る楽しさを知ったのは、一緒に作ったアネモネやバラのコサージから。

キャンベルのスープ、柔らかな白いチーズ、三日月がプクーッと膨れたようなピザ、サモワールで沸かした紅茶で締めくくられるロシア料理のお店、新宿高野のワールドレストランではどの国のお店の料理も「初めて」に溢れていた。

姉や私にはおいしい物をたくさん食べさせてくれたけど、マリおばさんはほとんど口にしない。野菜ばかり。ほんの少しの白身魚やライ麦パンばかり。「美味しいものは食べないの、食べ過ぎちゃうからね」そう言いながら、いつも重さを計ってから食べる。

マリおばさんは、一型糖尿病(若年性糖尿病)を患っていた。発症は10才の時。独身を貫いたのは、いずれ重度の障害を持つと分かっていたからだと母は言った。そしてその言葉通りに、私が成人して間もなく全盲になった。

今はきっともっと美味しいだろうソルダムを買う気になれないのは、マリおばさんが唯一口にしたガリガリとかたく酸味しかない果物だったから。銀色のケースの注射器が、冷蔵庫の卵ケースに置かれた低血糖時のキャラメルが、命をつなぐ物だとわかっていても見るのが辛かった。

だけど視力を失ってからもマリおばさんのパワーは変わらなかった。盲導犬と一緒にマラソンをはじめ、講演会に足を運び、私が訪ねると台所に立って料理を振る舞ってくれた。手伝おうとすると、目が見えていた頃と同じように「いいの、いいの、座ってな」と追っ払われて「アッ君も料理をするようになったか~」なんて笑っていた。味噌汁の南瓜の皮についたままのラベルの切れ端をソッと指で剥がして食べた。昆布と野菜の甘味の優しい味がした。


それが最後に会ったマリおばさん。6年前の早春、浴室で亡くなっているところをヘルパーさんに発見された。小さな葬儀を出し、姉と二人でマリおばさんのマンションへ行く。
このマンションで何十枚の写真を撮っただろう。これが最後の一枚になった。マンションの廊下に結びつけられたハンカチ。この前がマリおばさんの部屋の玄関。

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